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2016年3月 5日 (土)

啓蟄の遺品整理

春の陽気で暖かい。今日は啓蟄。冬眠していた虫たちも動き出した。

小生も動き出した。暖かいから部屋の暖房も要らず、部屋を封じる必要は無い。だから、

仕切りとなる戸を、扉を開け、部屋間の往来も活発となる。這い出た虫の如く活動を始める。

チョット掃除、整理をしてみようという気になった。兎に角、部屋を広くするには不要な物を極力

処分することだ。狭いが丁度良い広さの書斎、我が小部屋に40センチ四方の段ボール箱が

長く床上に置いある。置いている。引っ越して以降だから10年近くになる。場所をとり、気に

なっていた箱であるが、思い出したように整理しようという気になった。

親爺の遺品ならぬ言付け品。小生も老いてきたからその前に先代、親爺の荷物を整理して

おかなくてはと。引っ越してきた頃、手を付けたことがあるが、写真など、思い出の品があり

整理が捗らず、止めてしまった。今日、意を決して整理、処分することにした。

今から19年前の3月9日23時過ぎに親爺が倒れた。親爺は何時も19時過ぎには就寝。

小生がテレビを観ていたら、隣の寝床から小生の居る部屋に苦しみ転がり込んだ。

呼吸が荒く一瞬何が起こったのか解らない。我が家から30mほどの処には消防署(救急車)

があるが、周りを気にして通報せず、直ぐに最寄りの病院に電話、しかし、当直医は言った。

今、少年が亡くなったから受け入れられないと言う返事、急を要し、問答している内に取り

あえず来て下さいとなった。お袋と2人で車に乗せ10分足らずで着。この時、既に意識不明。

車から降ろすのも大変、酸素呼吸をし、明朝までが勝負となった。病名は心筋梗塞。

もしこの時、小生が寝ていて気付くのが遅かったら親爺は亡くなっていたかも・・・。

この事件が起きる5~6ヶ月前頃だったと記憶。親爺が小生に言った。

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         従軍記章                懐中時計

身体の調子がどうも良くない。もし何かあった時はこのダンボ-ル箱に入っていると言付

けた。その20年近く前に言付けた段ボール箱である。この段ボールに大した品は入って

いなかった。未整理のはずであるのだが・・・。整理していて気付いたのが旅行等を含む

多くの写真。これはなかなか処分出来るものではない。全て残す。

入社以降の全給与明細表を貼り付け、整理した厚い冊子がある。地元の紡績会社に入社。

昭和21年2月入社とある。5月の手取り給料421円90銭、支給総額594円68銭。

昭和49年までの明細表等が整理されている。小生も同様に初月給から退職するまでの

35年間の明細表を整理している。

次に目に付いたのが、二次大戦の従軍遺品。従軍アルバム2~3冊を見たことがあるの

だが。軍艦の勇姿などが載ったアルバムがあったのであるが・・・・・。有った、やはり3冊

残っていた。しかし、アルバムから剥がした写真も多数残っている。

親爺から戦争の話を聞いたことは殆ど無い。想い出したく無いのであろう。こちらから聞い

たことも無い。しかし、規律統制で体罰が厳しく、辛く、理不尽で無茶苦茶だったと言うこと

を聞いた事がある。甲種合格、元気な身体で生まれたことを悔やんだ時もあったものだと。

電信のモールス信号も強要され1週間で覚えたとも言っていた。やれば出来るsign01

昭和15年発行の国債券が残っている。券面には大日本帝国政府 支那事変行賞、

金300円とある。国家が軍資金を調達したようだ。20年後までに償還するとあるも既に

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紙切れ。10円95銭の利札が35枚あるも15枚が残り、20枚は換金しているようだ。

あめ玉でも買ったのだろう。

更に古く、昭和12年6月発行の日本勧業銀行の額面20円の割引債券が3枚ある。

券面には10円で売り出し、20円で償還するとある。抽選償還日は昭和12年10月~昭和

44年10月までの4、10月の年2回。券の裏面には当人の署名と銀行印があり、昭和50年

4月に償還を試みたようだが、何れも戦前発行、戦後償還。償還期限を大きく過ぎており、

インフレであめ玉代だ。価値は軍資金で潰れている、戦争が悪いのだthink

親爺は海軍の通信兵。広島呉海兵団所属。戦後の同年兵の会報が1冊残っている。

第1号は昭和60年(親爺73歳)発行。発行は後にも先にもこの1冊のみでは無かろうか。

今回初めてその会報の内容を見て新発見、親爺の投稿記事が載っている。

第17分隊17班 海軍兵曹長
昭和10年  4月 普通科電信卒業
  10年  7月 駆逐艦白雲に転勤
  11年  5月 駆逐艦叢雲に乗艦
  12年10月 足柄に乗艦 杭州湾上陸作戦に参加
       11月 上海陸戦隊に転勤、南京、漢口作戦に参加
           分捕船(宝月)にて揚子江沿岸測量
  14年12月 舞鶴通信隊に転勤 ソ連通信測定及傍受
  15年5月~20年5月 鳥取中北条、新発田、大和田を往来し、ソ連通信測定及傍受

戦後昭和31年第1回~60年の31回まで毎年、九州から愛知県までの会場で全国から招集

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された同年兵の集まりが催されて来た。絆は強く、親爺は毎年参加していた記憶がある。

年々参加者が減っていく中で昭和60年以降も開催されていたのであろう。

対象者は14~17分隊所属で、ある時点の案内状送付数133名とある。

小生の場合、これら父親の遺品、写真など故人の品の留保は面識ある小生までであろう。

一般的には祖父からひ孫までの世代間、精々4代後までである。人は消えて行くのみである。

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